昭和初期から続いた、創業60年余りの「阪神印刷株式会社」(尼崎市東難波町→尼崎市三反田町)は、IT革命の真っただ中、2000(平成12)年に倒産しました。なぜかというと、主に、売上高の約50%以上を、尼崎市役所に頼っていたからです。そこは、老舗らしい倒産の仕方でして、今にして思えば、マーケティング部や、商品企画部といったものがまるで皆無だったのです。尼崎市役所が先に、デジタル部門を立ち上げ、印刷物(連続伝票など)の内製化を進めた結果がこれです。
わたくしは、プリプレス課課員として、今で言うDX(デジタルエクスペリエンス)の最先端で頑張っていました。とりあえず、外注費を抑制しようと、文字の打鍵の能率化に励みました。若手の女の子社員さん延べ6名に「一寸の巾式キーボード」から「JIS 106キーボード」への転換を図り、教育し、日本商工会議所(尼崎商工会議所)の「キータッチ2000」の習熟を競わせるようにさせて、ローマ字入力への習熟度を上げて、来るべき、SONY NEWS Workstation の Edicolor で組版だけすれば良いだけの状態にしようと孤軍奮闘しました。Windows 98 で打鍵をしてもらい、8インチ FD から 3.5インチ FD への切り替えを進めました。その甲斐もなく会社はどうなったかというと……。
当時の名刺です。この情熱に、元写植課課長も、根負けして折れて、一寸の巾キーボードはそのままにしても、打鍵だけをしてもらい、Windows 98 マシンには、外付け8インチ FDD がありましたので、それで変換ソフトを用いて3.5 FD に変換してもらい、組版(新聞組み)はわたくしたち若手がするようになりましたね。
それでも、会社全体の手作業、無駄な工程は生き延びていました。手動写植機のご老人方とか、写植文字切り張りの元製版課などなど、それはもう無駄の自動律でした。
案の定、倒産半年前には社長が社員全員を食堂に集めて「ご協力ください」と頭を下げるものの、仕事は入って来ず、営業さんも、幾ら靴を擦り減らそうが、電話をかけようがまったくダメで、せっかく ISDN 128Mbps の回線が多数入っているものの、それをインターネットの受発信に使うこともせず、商品企画部やマーケティング部がない「阪神印刷株式会社」は、あえなく撃沈、敗戦の日を迎えることになりました。世間はもうIT革命の本番でした。
残されたものは、300日間の失業給付金と、4月からポリテクセンター兵庫・情報システムサービス科行き、という結果が待っていました。僕はそうしました。おいら30歳、失業者になりました。
ここから得られる教訓とは、考えない経営者や、考えない旧態依然とした営業部には、何ら新しいタイプのサービスや商品を打ち出す提案書も書けず、自分自身の身の保身に汲々とするばかりです。会社のため、というよりは、自分自身の身の保身ばかりを考えていたのです。
あーあ。そんなおっちゃんの、むかしばなし。ではでは(・∀・)ノ
パソコンのお医者さん エレジーすら残らない ネットウイングス 代表 田所憲雄 拝
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